皆さん、こんにちは。
コーヒーはブラック派、あい駒形クリニック常勤医の高橋秀行です。
「耳鼻科医師が訪問診療を志したワケ② 〜基礎研究が私を変えた〜」に引き続き、今回も耳鼻咽喉科・頭頸部外科医である私があい友会と出会い、訪問診療に携わるまでのお話をしたいと思います。
基礎研究の本場アメリカへ
さて、前回は大学院を経て博士研究員の道に進むまでのお話をさせて頂きました。
そんなわけで大学院を卒業後、University of California, San Diego Moores Cancer Centerの病理学の研究室で博士研究員として働かせて頂けることになりました。
研究室のDr. Varnerとは2016年に参加したアメリカ癌学会がきっかけで知り合い、受け入れて頂けることとなりました。
研究室では、マクロファージという免疫細胞を標的とした新しいがん免疫療法の開発を目指し、細胞株やマウス等を用いて研究を行っていました。
私の大学院時代の研究テーマと重なる部分が多く、大学院時代に培った技術や知識を応用出来る一方で、日本ではまだ実践が難しかった新しい研究技術を用いることも出来て、本当に恵まれた環境でした。
アメリカのがん基礎研究に感じた3つの凄さ
がん基礎研究は世界中で行われており、近年は中国の存在感が年々大きくなっていますが、やはり本場はアメリカです。
それこそ、私が博士研究員としての勤務先をアメリカで探した理由ですが、いざアメリカで働き始めると、様々な面でその凄さを実感いたしました。
研究施設の規模が大きい
最初に圧倒されるのは、研究施設の規模です。
10校あるカリフォルニア大学のひとつであるサンディエゴ校ですが、驚くほど広大な敷地内のあちこちに多くの研究施設がひしめき合い、敷地内を巡回する無料バスも沢山の路線があります。
さらに、一つ一つの施設が大きく、多くの研究室が入っており、どの施設も妙にオシャレです。
こうした規模の大きさは、いかにもアメリカらしい凄さですが、いざ目の当たりにすると、圧倒されます。
若手研究者も研究費を獲得出来れば自分の研究室を持つことが出来るので、研究室の数も圧倒的と感じました。
研究室の質が高い
規模だけでなく、その質の高さにも驚かされました。
それには様々な理由があると思いますが、国が分配する研究費の規模の大きさと、その獲得競争が大きな理由の一つではないかと思います。
アメリカでは大型の研究費獲得を目指して、大小様々な研究室が日々熾烈な争いを繰り広げています。
研究費が取れなければ研究室は解散、従業員の雇用も守れませんので、一つでも多くの研究成果を上げて申請書の内容を充実させようと、皆必死に研究を行っています。
全体を見ると日本と比べてライフワークバランスの意識は高いのですが、土日も研究室に籠もってらっしゃる方も多く見かけました。
議論や情報交換が活発
規模と質の話をしてきましたが、研究室間の情報交換やコラボレーションの多さも、アメリカの原動力だと感じます。
これは文化や言語に根ざした相違なので仕方ないのですが、アメリカの研究者達は非常に活発に議論し、情報交換を行います。
学生の頃から、プレゼンテーションとディスカッションのトレーニングを受けているのも大きいと思います。
そうした繋がりから共同研究が生まれ、発展してゆきます。
こうした相互作用が生み出す大きな流れは、日本に足りないものだと強く感じました。
アメリカ研究生活の苦難と得られた大きな経験
このような研究の本場アメリカに、大学院で4年間研究をかじっただけの耳鼻科医が飛び込んだわけですから、最初は本当に苦労が絶えませんでした。
言葉の壁はもちろんのこと、限られた資金で研究をやり繰りする苦労、多くの共同研究者や業者との交渉など、それまでに経験のないことばかりで、精神的につらい時期が続きました。
Dr. Varnerは研究に関しては妥協を許さない方で、連日徹夜の実験が続き、床にダンボールを敷いて研究室に寝泊まりすることもありました。
厳しい環境であったためか人の入れ替わりも激しく、2年が過ぎる頃には研究室の最古参として博士研究員や技官、大学院生、学部生をまとめる立場となりました。
最初の頃はとにかく目の前のことをこなすことに必死でしたが、この頃には仕事を上手く分配しながら複数のプロジェクトを進めることが出来るようなりました。
こうした経験は、研究の枠に留まらない大きな糧になったと感じています。
生活面では、私のような博士研究員や企業の駐在員など日本人が多く、日本食や日本のスーパー等も豊富にあったため、日本にいた頃とあまり変わらない生活を送ることが出来ました。
カリフォルニアの眩しい日差しのもと、週末は家族と海やテーマパークへ足を運ぶ時間も持つことができ、群馬では味わえない経験が出来たと思います。
このように、渡米前は非常に楽観視していたアメリカでの生活ですが、実際にやってみないと分からない様々な苦労がある一方で、得たものも非常に大きかったので、結果的にはチャレンジしていて正解だったと感じています。
大学院の時と同じで、未経験の事にチャレンジするのは大変なストレスと労力を要しましたが、得られた経験や人々との出会いは、私にとってかけがえのないものとなりました。
ただ、ビーチで太平洋の大海原を見るたびに「向こう岸にある日本へ帰りたい…」と思わない日はありませんでした(笑)
そして新たなステップへ
さて、長くなりましたが、なんとかアメリカでの生活を終えて帰国した私は、耳鼻科医として再スタートを切ることになりました。
すでに専門医も取得していた私は、さらなるステップに向けて研鑽を積まないといけなかったのですが、大学院・博士研究員の7年間で多くの斬新な経験を味わってきた私には、耳鼻科医に戻るのではなく、さらなる新しいチャレンジをしたいという漠然とした気持ちがありました。
そんな中、ついにあい友会に出会った・・・のではなく、なんと企業で働くという機会に恵まれたのです。
次回、「耳鼻科医師が訪問診療を志したワケ④ 〜企業での貴重な学び、現場を離れて見えたコト〜」に続きます。
訪問診療に出会うまで、もう少しですので、どうぞお付き合いください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!